自燈明―捨てる自分、活かす自分
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商品カテゴリ: | 人生論,生き方,生きがい,生涯学習
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セールスランク: | 57716 位
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無分別
「宗教」というと固定観念のように、誰ぞかに従い、服従し、そんな世界があるのだろうと思い込んでいる人もいるが、実のところ他人に盲従するのはいけない、自らを光としろというのが基本のようで、所属願望などとは無縁のモノなのだろう。
なんだか、胸にぐっと来た話があった。
毎朝、自転車で近所の山あいの道を見回りしているお爺さんがいた。
その爺さんは毎朝、会う人事に「おはようございます」と挨拶していて、寺の庭を掃除していた玄侑さんも、はっとして「おはようございます」と挨拶を返した。
最初はどこのお爺さんかと思っていたが、寺を総括するようなそれは坊さんだったのだと後で知る。
あるとき誰かから訊いた話。
お爺さんが「おはようございます」と挨拶しても、どうしても挨拶を返さない人がいた。
が、お爺さんは気にとめる様子もなく毎朝おなじように「おはようございます」と挨拶していた。
まるまる二年も過ぎた頃、ある朝いつものようにお爺さんが挨拶すると、その人ははじめて「おはようございます」と挨拶を返して来たという。
そしてその場にうっぷして泣いた。
玄侑宗久さんは、その人にその朝、突如、大きな変化が起きたのだろう。という。
それはきっと二年の挨拶を返さない時間とも無縁ではないだろう。
「どうしても挨拶を返さない人」と書いたけど、「どうしても挨拶を返えせない人」、そんな人はたしかに居ると思う。
お爺さんの「おはようございます」は「無分別」の見本のような姿だと玄侑さんは言う。
いったい、いつまでも挨拶を返してこないような人に、あなたは挨拶し続けられますか?。ということだ。
「分別」ということで言えば、「この人は挨拶し、あの人はしなくてもいい人だ」というふうにぼくらはなっちゃうんじゃないか。
なんだかどこか身につまされる話でもある。
ま、いっか...『やむをえない』
『観音三十三変身』のたとえを引いて こう語る。
相手を見て『法』を説くこと、相手にあわせて、相手が理解できるように話をすること これが本来の『教え』の姿。
この著者は なにげない語りで自分でやってみせてくれる。 この著者の語りは あいかわらずわかりやすい。
『中道について』の章で こう語る。
「こちらの言い分を通す」こと、「相手のやり方に応じる」こと、どちらもできないと窮屈になる。「こちら(=自分)の
言い分を通す」とは、まわりの状況はすべてコントロールできるものだと、思い込んでしまうこと。この思い込みが
自分を苦しめる... 自分の思い通りにならないことは、『やむをえない…』と思うことだ、と仏教の教えを説く。
「 滝つぼに落ちたら、がむしゃらにもがくな。だまって滝底まで沈めれば、あとは浮かび上がるしかない 」
「 大きな流れに無理に立ち向かうな。流されてしまえ。足が立つところまで行って、流れが穏やかになってから
立ち上がって もう一度歩きだせばいい。」
私が 仕事に行き詰ったときに すでに現役を退いた元・上司からもらった言葉を思い出しました。
玄侑宗久さんの『この本』 と スマラサーラ師の 『無常の見方』 をあわせて読まれたらいかがでしょうか。
大乗仏教、上座仏教のちがいはあるものの 『仏教』 の考え方は 決して特別なものでも むずかしいものでも
なく、 「 忘れていたものを気づかせてくれるもの 」 であることを教えてくれます。
三笠書房
まわりみち極楽論―人生の不安にこたえる (朝日文庫) 釈迦に説法 (新潮新書) 私だけの仏教―あなただけの仏教入門 (講談社プラスアルファ新書) 多生の縁―玄侑宗久対談集 (文春文庫) 実践!「元気禅」のすすめ (宝島社文庫)
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